ご存知のとおり、ポーランドの首都ワルシャワで5年に1回、ショパンの命日である10月17日の前後3週間にわたって開催される最古で世界ナンバー1の権威ある国際ピアノコンクールです。2015年はチョ・ソンジン(韓国)の優勝で終わりました。日本人では小林愛実さんがファイナリストに残りました。
1980年頃から日本人の入賞者が増え、また2000年頃から中国、韓国のピアニストが目立つようになり、アジアでも確実に一流のピアニストが増えていると言えます。かつての東側、社会主義国は早期英才教育に熱心で、優れた音楽家や運動選手を世に送り出していました。今なら中国がその代表であり、熱心に国際音楽コンクールに参加者を送り出しています。韓国も国策として若い才能の教育に熱心です。
歴代の優勝者と言えば、超、超一流のピアニストぞろいで、現在でも神様のような方ばかりです。1960年優勝のマウリツィオ・ポリーニ、1965年優勝のマルタ・アルゲリッチ、同年4位に中村紘子、1970年2位の内田光子(日本人最高位)、1975年優勝のクリスティアン・ツィメルマンなどは誰もが認める世界のトップピアニストです。
このぐらいのレベルのピアニストがそろうと審査員の評価も一致しないようで、1980年はダン・タイ・ソンが優勝していますが、イーゴリ、ポゴレリチは予選落ちでアルゲリッチが怒って審査を放棄、帰国したのは有名な話です。ポゴレリチはその後世界トップの一人となります。
1955年は第1位ハラシェヴィチ(ポーランド)、第2位ウラディーミル・アシュケナージ(ソ連)、田中希代子は日本人初の入賞者となったのですが、審査員のアルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリ(本当の天才ピアニストです)は、田中希代子をもっと高く評価すべき、アシュケナージとハラシェヴィチの順位を入れ替えるべきと主張し、サインを拒否して帰ってしまいました。(現在アシュケナージは世界のトップの一人)
また1995年アレクセイ・スルタノフは、1位なしの2位をフィリップ・ジュジアーノと分かち合うという結果となり、スルタノフはこれに反発し直ちに審査発表の席から立ち去り、授賞式への出席をボイコットしました。審査員、演奏者側ともいろいろな不満があり、これもまた大変興味深い・・・。私も来日時、スルタノフを聴いたのですが、本当の天才でした。夭逝が惜しまれます。
国際的コンクールにほとんど無縁の超一流ピアニスト、ダニエル・バレンボイム、エフゲニー・キーシン、ラン・ランなどもいますが、ほとんどの一流ピアニストは何らかの国際的コンクール入賞者が多いです。入賞者は演奏する機会が与えられるというメリットがありますが、まだその時点では世界に認められたわけではありません。年齢制限もあり若く(16~30歳)、これからの努力、成長により世界的に認められていくわけです。(世に出た時にはすでに完成されている人もかなりいますが・・・)またコンクールに優勝してもイマイチの人もいます。2000年のユンディ・リ(中国のキムタク??)はまだまだ(ファンの方ごめんなさい・・・)。2010年のユリアンナ・アヴデーエワはこれから期待できそうです。よっぽどの天才でもない限り、勉強、努力は一生しなければならないようです。
昨年のコンクールはネットでライブで見られるようになりました。また、どの審査員が誰に何点入れたかも公開されています。これも非常に興味深い。4年半後がまた楽しみです。
「健康さんぽ71号」
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